◆金融被害者怒りの手記第4集の発刊の意義◆
 


 『金融被害者怒りの手記第4集』のパンフレットはノンフィクション劇場『騙す Part4』(大蔵省の国家的犯罪)の上演の日(2004/03/19)に発行されました。手記には28人の金融被害者が赤裸々な被害体験を告発していますが、この手記内容の読み方、考え方を含め発刊の意義について、手記前文の「金融消費者怒りの手記第4集(続・裁判所編 不当競売編)の発刊によせて」と末尾の「編集後記」で述べています。その二つの個所を以下、紹介します。
 なお、パンフレットのご希望者は銀行の貸し手責任を問う会事務局(03−3581−3912)にお申し込み下さい。実費頒価は1冊1000円(送料別途)です。
 

■金融消費者怒りの手記第4集(続・裁判所編 不当競売編)の
 発刊によせて(2004/03/19)

 しかし、金融庁は、銀行の不良債権処理を急がせる一方で、不良債権処理の現場では、このように血の涙が流されていることには、まったく目を向けようとはしない。多くの銀行被害者に共通するのは、自らが借りようとして借りたのではなく、バブル期に銀行の訪問をうけ、相続税対策などを口実にした勧誘トークのもとに、年収の一〇〇倍を超える過剰な融資を押し付けられ、変額保険や不動産、株などを買わされたことだ。
 中には、詐欺まがいの勧誘で、融資を押し付け、欠陥商品を買わせた銀行も少なくない。その背景にあるのは、大手銀行のなりふりかまわぬ個人向けの過剰な融資攻勢であった。
 バブル期に、取引先大企業の銀行離れがすすみ、貸出先に困った大手銀行は、これまで相手にしなかった個人をターゲットに、融資拡大に奔走した。それに利用されたのが、一〇〇万件の大型フリーローンである。これは、不動産担保さえあれば、資金使途も年収も問わないため、資産のある高齢者や遺産相続人らが集中的にねらわれた。
 返済原資も返済方法もすべて、銀行がスキーム(仕組み)を作って、提案した。バブルが崩壊して、返済できなくなったとしても、返済出来ない責任は、返済スキームを作った銀行に責任がある。
 しかし銀行は、ゼネコンなどには巨額不良債権を放棄しながら、自分たちが押し付けた過剰融資の借り手に対しては、情け容赦のない債権回収を行っている。
 このような不公正な債権回収を行政も裁判所も容認している。金融庁は、不良債権処理が公正に実行されているかどうかに、目を向けようとはせず、また、日本の司法制度が銀行被害者の救済を困難にしている。
 その第一の原因は、この国には、銀行取引を規制する法律がなく、民法で定める「借りた金は返せ」という論理しかないことだ。
 第二に、裁判手続きが借り手に極めて不利なことだ。
 例えば、民事訴訟法第二二八条四項には、本人の署名捺印さえあれば、文書は本人の意思に基づいて作成されたと推定するという規定がある。このため金融機関は、契約書に借り手の印鑑が押されていることを証明すればよい。金融機関は借り手の印鑑証明書を取っているから、貸し手(金融機関)の契約の成立を立証する責任は、まさに紙のごとく軽く、簡単なのである。
 ところが、借り手がだまされていたとして契約を取り消そうとすれば、だまされていたことを立証しなければならない。契約当時、借り手は金融機関を全面的に信用しているから、勧誘の手法などを録音したりはしていない。借り手には、証拠はほとんどないのが普通である。逆に銀行は、取引の経緯などを業務日報やりん議書に記録している。公正な裁判というのなら、銀行はそうした重要証拠書類を率先して提出するのが当然だろう。
 銀行はそれら書類を提出すると不利になると考え、絶対に提出しない。その上、裁判所もそうした書類は銀行の内部文書であり、提出命令の文書には当たらないという考えを示している。
いうまでもなく、裁判の理念は公正であって、「武器対等の原則」が保証されなければならない。
 借り手と銀行とでは、情報や知識に大きな格差がある。それを補うにも、裁判所は銀行が保有するりん議書や業務日報などを提出させるべきだ。
今のような裁判が続く限り、借り手の勝訴率一%という信じられない結果は今後も続くだろう。
 司法制度改革には、何よりも米国で広く認められている「証拠開示の原則」を導入することが先決だ。
 怒りの手記第四集の不当競売編には、11名の銀行被害者が、高齢者から、長年暮らしていた自宅を奪うことは、将来の生きる希望を奪うことに等しいものであることを自らの体験にもとづき、切々と書いている。
 また、続・裁判所編では、銀行金融機関との裁判を経験した九名の銀行被害者が、裁判所の銀行被害者を救済しようとしない不公正な裁判の現実を鋭く告発している。本冊子を多くの方々に読んでいただき、日本社会の闇とされている現実に触れ、この不公正を正すための私たちの運動にご参加いただくことを願っている。
          2004年3月19日
                   銀行の貸し手責任を問う会

■「金融被害者怒りの手記第4集」の編集後記

 最近、銀行業界は、いっせいに「企業の社会的責任」(CSR)の大合唱を始めた。
遅まきながらも、銀行が社会的責任を自覚したのであれば、これに異を唱える必要はない。しかし、銀行が考えている「銀行の社会的責任」は、融資先企業に環境保護や社会活動などの社会的責任活動を求めることなのだ。
 銀行自らが、顧客や地域に対して社会的責任を負うという考えは、念頭にない。
  もちろん、銀行が、反社会的活動をする企業に融資をするというのは論外だ。しかし、銀行が本気で社会的責任を果たそうとするためには、なによりも、銀行みずからが、社会から批判を受けている様々な問題について、率直に自己批判し、これの改善を行うことではないか。
 銀行が厳しい自己批判もなしに、企業の社会的責任を言ったところで、白々しさを感じてしまうだけだ。日本の銀行が、社会的責任を導入したのは、企業の社会的責任が、世界の趨勢になっており、これを無視して企業活動はできなくなっているからだ。
 米国などの年基金などのグローバルマネーも、株投資の基準として、CSRに注目し、企業の格付けのひとつの指標ともされる時代になっているからである。
 しかし、銀行がこのような打算で、社会的責任を導入したとすれば、社会的責任の趣旨に反するものである。企業の社会的責任の意味は、企業が、収益などの打算だけではなく、環境や人権、労働、社会的公正などへの配慮をしなければならないということにあるからである。
 同時に、重要なことは、企業の社会的責任の出発点となったのは、世界的企業が、工場を発展途上国に移転し、発展途上国の政府が無力なのをよいことに、そこの労働を搾取して、生産コストを減らして、世界の市場で、競争することは反社会的活動であるとされたことにある。
 日本の銀行も同じことが言える。周知のとおり、日本には、欧米では確立されている貸し手責任がまったくないために、日本の市場では、どんなに借り手や消費者の権利を踏みにじった商法を行っても、金融機関はまったく損しない仕組みになっている。 損失は、すべて借り手、あるいは、消費者に転嫁でき、リスクは、金融機関にはまったくない。
 欧米の銀行が、欧米でおなじことをやれば、莫大な損失を銀行がかぶらなければならないのに比して、日本の銀行は、はるかに優位した立場にある。
 日本の銀行は、まさに発展途上国並の政府と変わりない日本政府に支えられて、日本国民の犠牲の上に、金融機関に手厚い保護をうけ、世界での競争力を高めてもらっているのだ。
世界では、このことは知られてはいない。この小冊子を是非、翻訳して、日本の銀行と日本政府、裁判所との不当な関係を知らせて行く活動も必要であることを痛感する。