金融被害者に光あれ!
《新刊》その印鑑押してはいけない! <金融被害の現場を歩く>
 (北健一著、朝日新聞社)
発刊 
ハンコが生み出す銀行犯罪の数々を告発 印鑑偏重社会に警告のメス
『100万人を破滅させた大銀行の犯罪』(講談社)に続く
 
被害者救済と再発防止の好著


はじめに

 「宅配使です。ハンコください」「はいはい……いつもお疲れさま。どうぞ」
 「こちらが契約書です。ここに捺印と捨て印をください」「ここと、ここね。これでいいですか?」「はい、大丈夫です……」
 日本のあちこちで、おそらく一日に何億回と繰り返されている光景。私たちはまるで、起きがけに顔を洗うとか、夜入浴するといったのと同じ感覚で、ハンコを押している。ハンコ=印鑑は、この国の社会に不可欠のものとして根付いており、宅配便や郵便の受け取り、お金や不動産の貸し借り、銀行口座(郵便貯金口座)の開設や預貯金の払い出し、役所での書類申請……などなど、日々の生活は印鑑なしではたちまち支障をきたす。ハンコは日本社会の、もっとも基本的なインフラと言ってもいい。
 しかし、そのインフラが、いま音を立てて崩れ始めている。盗まれた(あるいはパソコンを
使って、たった5分で印影をコピーされた)ハンコを使って、知らないうちに預金が引き出されたり、多額の借金の債務者や連帯保証人にされたりする事件が、全国各地で類発しているのだ。
 しかも、客観的に見て、明らかに他人が押したとしか考えられないような書類(書類に記された名前や住所が間違っていたり、他人の筆跡であることが明白な書類)であっても、裁判所は被害者の訴えを認めない。届け出された印鑑と、書類に押された印鑑が同一であれば(あるいはそう見えれば)、ほぼ無条件でその契約は成立したものとみなす、という民法の規定があるからだ。このため、被害者のほとんどは泣き寝入りを強いられている。
 ハンコは二つの役割を持っている。一つは、「その人が自分で言っているとおりの本人であること」の証明(本人確認)、もう一つは、「その本人が本当にあることを求めていること」の証明(意思確認)である。そして数多くの事例を元に、ハンコに過重な役割を負わせる現行のシステムがもはや時代遅れになっており、そのために様々な悲劇が生み出されていること、いますぐ、抜本的な改善が必要であること、この二つを主張するのが、この本の目的である。
 こうした被害の実態を、本書は次のような構成で明らかにしていく。
 第1章と第2章では、ハンコを勝手に使われたことで、まったく覚えのない借金の支払いを請求された二つの家族の事例を追う。前者は白紙の書類に押したハンコが悪用されたケース、後者はいつの間にか持ち出されたハンコが悪用されたケースである。
 第3章ではバブル期に多用された「提案型融資」による被害を、第4章では商エローンが多用する「公正証書」による被害を取り上げる。どちらも銀行や金融業者が、ハンコの持つ威力を利用して、債務者を追いつめた例である。
 第5章では、直接印鑑とは関係ないが、それと関連して被害を広げている「(特に第三者)連帯保証人制度」「産額保険」「フリーローン」について問題点を探る。
 第6章では、「もう一つのハンコ被害」と言われる「預金過誤払い」について取り上げる。
 第7章ではこのような「ハンコ社会」を成り立たせている民事訴訟法第二二八条四境の成立過程を、明治時代にさかのぼって明らかにする。「ハンコは危険だ、個人のくせが明瞭に出るサインの方が間違いがない」という意見は明治時代から出ており、現在のハンコ被害は、すでにこの時に予見されていたということがわかる。
 第8章ではこの民訴法の規定改正に向けたシンポジウムの議論を振り返る。
 最終章では、最新の動向を追うとともに、「ではどうしたらよいのか」考えられる対策を明らかにする。
 こうしている間にも、あなたのハンコは誰かに悪用されているかもしれない。
そうならないために、何かできるか、何をすべきなのか、ぜひ私とともに考えていただきたい。この本がそのための一助となれば幸いである。


おわりに

 私が金融被害の取材にのめり込むようになったきっかけは、法律雑誌の企画で、変額保険被害者・田崎アイ子さんに話を聞いたことだ。広島で被爆し辛酸をなめた高齢者を、天下の大銀行が偏したことに驚いて取材を進めるうちに、ハンコがあまりにも重視されている弊害、本書の主題である民事訴訟法第二二八条四項の問題に突き当たった。
 取材を導いてくれたのは、いささか型破りで情熱的な弁護士・椎名麻紗枝さんだ。いつも貴重な示唆を与えてくれただけでなく、本書の執筆も強く勧めてくれた。お二人をはじめ、辛い経験を語ってくれた金融被害者と、その救済に尽力する国会議員、弁護士、支援者らのご教示に深く感謝している。
 また、ジャーナリストの姿勢や職能については、スポーツジャーナリスト大野晃さんら日本ジャーナリスト会議や出版ネッツ(出版界で働くフリーランスのユニオン)につどう人たち、フリージャーナリスト仲間である三宅勝久さんが名誉毀損と訴えられたのをきっかけにコミットすることになった、サラ金大手・武富士とのバトルで出会った山岡俊介さん、寺澤有さんら熱い心をもったジャーナリストだちとの交流は、取材を進めるエネルギー源になった。マスコミ界の底辺にいながらも、この仕事の楽しさとやりがいを実感できているのはこうした先輩と友人たちのおかげだと思う。
 最後になるが、物事の核心を考える面倒な作業を避け、売りやすいハウツー本や軽い読み物ばかりを求める風潮のある出版界にあって、困難なテーマを辛口に書いた本書の出版を決断された朝日新聞社書籍編集部のみなさま、特に、全体の構成から一つひとつの文章に至るまで心のこもった編集をして下さった回編集部の林智彦さんと、とてもていねいな仕事をされた校閲の方にはお礼の言葉がみつからない。本書のもとになった多くの記事に発表の場をくださった編集者のみなさまも、ありがとうございました。
 ハンコ被害をめぐる資料の山に埋もれそうになりながら。
                      北健一
   二〇〇四年七月一五日